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ある一つの相続の物語①29 Sep. 2022

生まれてからの27年間、東京で生活をしてきた私が、いま山梨にいるのは一つの運命なのであろう。

私の祖父は戦前に満州で弁理士をしていた。満州への移民として祖父母で移住したのである。祖父母の長男として満州で父が生まれたのは、太平洋戦争が始まる3年前のことである。
祖父母の家族は終戦とともに、本土に引き揚げてきた。その途中で、祖父母は娘二人(父からすれば妹であり、私からすると叔母にあたる)を失った。

終戦後は、中富で米や野菜を作って農家をしていた。貧しい生活であったと聞いているが、祖父母の子は亡くなった叔母以外に5人いたし、地域の繋がりもあったし、生産手段もあったから、現代的な貧しさとはだいぶ異なるであろう。

父の実家は今でも中富にあるが、山梨をおそった大雨のときに山からの鉄砲水で一度家を失い、建て替えたものと聞いている。今のようにテレビもない中であるから、情報がない中、家の土蔵の二階に家族で避難していた。朝起きたら居間に大岩があったそうだ。休止に一生を得るとはこのことかと語り継がれている。

父は身延高校に進学した。父の弟妹たちも全員身延高校に進学している。そのためか、たまに父の弟妹を知っている人に出会う。
父の高校時代については、柔道部であったということ以外には知らない。久遠寺の石段を上り下りして足腰を鍛えたという話は聞いていた。

高校卒業後、防衛大学校に進学した。当時の防衛大学校は横須賀にあったそうだ。防衛大学校は自衛隊の幹部候補生を輩出することに目的がある。敗戦により武装解除された日本が自衛隊を組織したのが昭和29年。父が大学に進学する数年前のことである。
大学生時代はラグビーを一生懸命やっていたようだ。柔道、ラグビーと体力的には自身があったに違いない。私は密かに「武闘派」と呼んでいた。

防衛大学校を卒業した父は、自衛隊に入隊した。パイロットになったが、目の怪我により、飛行機を降りざるを得なかった。
浜松基地にいたときに、看護師をしていた母と知り合ったそうだ。事実と異なるかもしれないが、断片的な聴き取りによると、テニスをしていた父がアキレス腱を切り、入院したのが母が看護師をしていた病院であり、そこで知り合った。私は両親から一連の話として聞いていないため、ストーリーとしては異なるかもしれない。
ただ一つ母が言っていたことを思い出す。

「制服がかっこよかったよのね。制服がね。」

両親の関係性が見えた瞬間であった。