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ある一つの相続の物語②03 Oct. 2022

父は、自衛隊出身の弁理士であった。
自衛隊から弁理士になるというのは、かなり異色のキャリアのように思えるかもしれない。しかし、防衛大学校、自衛隊では、様々な科学的な研究が行われているから、優秀な「理系」の人が多い。途中退職をして、弁理士として活躍している方は実は多くいるのである。

とはいえ、ときの弁理士試験は、合格者数が数十人というレベルであったから、司法試験と同様に難関試験であった。自衛隊を退職して、収入がない中、母が看護師として得た収入で支えていた。数年の受験生生活を経て、試験に合格した。その後、父は虎ノ門で特許事務所を開業した。それは、山梨には戻らないという意思の表れでもあった。

父が弁理士となった当時は高度経済成長の後期であり、東京などの大都市では戦後直後の様相とはかなり異なっていた。
東京の人口は急増して昭和38年には1000万人を超え、昭和45年ころには少し増加も落ち着いた頃である。これは地方出身者の流入が一旦落ち着いたからでもあるが、東京の人口のそれなりの割合が地方出身者となっていた。

父は山梨の地域に密着した人間関係を好まなかったようだ。仕事をするに当たっては地域性が希薄な(要するにビジネスライクな)環境を求めたようである。とくに弁理士という仕事は開発を行っている企業相手の仕事が多いことから、ある程度大都市圏に集中するのは当然といえ当然である。

そのような中、私は昭和53年に東京で生まれた。
東京生まれである一方で、地方出身者2世でもある。そして、専門職の親を持ち、教育意識の高い家庭に育ち、第二次ベビーブーマーによって苛烈となった受験戦争の波に飲まれていく存在でもあった。

なお、父の末の妹(私からすると叔母)は私が生まれたときに立ち会っていて、私の頭がコーンヘッズのように尖っていたのを覚えているようである。あれから40年以上経った今でも、その話から始まるのであるから、よほど尖っていたのであろう。

この話がどのように相続に関係していくのか、それがこの物語のテーマである。